時は今から820年ほど昔の寿永年間。 「奢れる平氏も久しからず」まだ幼い安徳天皇を奉じ、西海に落ちのびた平家。そして逃げ場のない平家を追いつめる義経ひきいる源氏勢…。 平家と源氏の雌雄を決する前哨戦が、今、ここ屋島の檀ノ浦で火ぶたを切ろうとしていた…。
寿永二年(1183)7月、京都に攻め入った木曽義仲ひきいる大軍との戦いに敗れた平家は、都落ちて九州にわたる。九州も追われた平家が求めた新たな拠点が屋島であった。 対岸の屋島檀ノ浦に内裏が完成するまでの間、安徳天皇と三種の神器を奉じるため六万寺に行在所を置き、いつの日か京都に凱旋できることを夢見ていた。海上からの源氏の攻撃に対する防御として造られたのが総門である。
寿永三年(1184年)一月には、一ノ谷(現在の神戸市)に城を構えたが、一ノ谷の戦いにあえなく敗れる。海に逃れた平家は、再び屋島にて形勢の巻き返しをはかろうとその機をうかがっていたのである。このとき、平家の誰もが海からの攻撃を想定していたに違いない。
六万寺
総門跡
寿永四年(1185年)二月、平家一門が屋島に落ち延びてからちょうど一年後、実兄である源頼朝から平家追討の命令を受けた源義経は、強風の中わずか150騎、船5艘に分乗して四国、阿波(現在の徳島県)に上陸。一路、屋島へと向かった。義経は大阪峠を越え、引田から長尾、前田を経て新田へと本隊を進軍させた。一方、背後に回る支援は海岸線を進み、「明待」と言われる元結(もとゆい)峠で夜が明けるのを待ち、付近の民家や屋島檀ノ浦の内裏に火をつけるなどの奇襲攻撃にでた。平家はまたたくまに広がる火の海と敵軍の来襲に驚きあわてて、檀ノ浦に追い落とされ、総門をも占領されるのである。
しかし、平家軍もすぐさま反撃に出た。平家きっての強弓使いと言われた能登守教経(のりつね)は、あざ笑うかのように燃え盛る総門近くに立つ義経めがけて弓を引いたのである。放たれた矢の前に、立ちはだかったのは、義経四天王の一人、佐藤継信。「しっかりせよ」と抱きかかえる義経に、強弓に射抜かれた継信は「主君の身代わりになれたことは今生の面目、冥土への思い出」といいながら息を引き取った。 継信の遺体は洲崎寺の扉にのせて運ばれ、手厚く葬られた。継信の死を悲しんだ義経は近くの高僧を招き、自分の太夫黒という愛馬を託し、ねんごろな弔いを頼んだ。
その馬は人の言葉がわかったのか、ある日突然、姿を消し、継信の墓に寄り添うように倒れていた。哀れに思った僧は、この太夫黒を継信の墓の傍らに葬った。
射落畠(ここで継信が矢に倒れた)
継信の墓
洲崎寺
激しい戦いも屋島に日が傾くと互いに軍を退け、源氏は瓜生が丘に陣を張り、本陣を西林寺に置いていた。翌朝、本陣では戦いの前の腹ごしらえと、兵士達はその準備に追われていた。しかしこの辺りは海辺だったので水が出ない。困り果て右往左往する炊き出しを見かねた豪傑・武蔵坊弁慶は、大長刀でひょいと大石を投げ飛ばしたという。すると摩訶(まか)不思議、水が噴き出す泉を作ってしまった。これが今に残る「長刀泉」である。 それから近くにあった石地蔵を持ち出し、「今度は何をするつもりか」と周りのものが見守るなか、弁慶は地蔵様の背中をまな板代わりに野菜を並べ、豪快に切り刻んだ。これもまた「菜切地蔵」となり、源平合戦の楽しいエピソードとして語り継がれている。
菜切地蔵
やがて合戦の情勢も見えはじめ、阿波・讃岐の武将たちも源氏に馳せ参じ、次第に平家は四面楚歌の状態になった。 その時、平家方より一艘の船が近づいてきた。女官を乗せたその船の舳先になにやら赤いものを掲げている。扇である。波に漂う船に掲げてあるその扇の的を射てみよ、というのだ。義経は家来を見渡し、手利きで名の知れた那須与一に命じた。しかし、射損なっては源氏の恥と、最初は拒んだ与一もやがて義経の命令に逆らえなくなった。「もし、射損じれば弓を折って死ぬまで」と心に決め、「南無八幡大菩薩願わくは…」と一心に祈りながら、荒れる海に乗り入れ、海中にあった大石(駒立岩)に馬を立たせ、無心に扇をねらって、弓を放った。矢は長鳴りを浦に響かせながら飛び、パシッと扇は見事、空高く舞い上がった。ひととき静まりかえった両陣にどっと歓声が沸き上がった。
祈り岩
駒立岩
「扇の的」の名場面は那須与一にとって、生きた心地がしなかった。与一の腕を讃えて舞い踊る船の中の老武者を見た義経は、与一に命じて平家の船に向かって再び矢を放させた。その老武者は顎に矢を射立てられ船底に倒れた。それを口火に両陣の激しい合戦がまた始まった。 浜では、源氏の美尾屋十郎と平家の悪七兵衛景清の一騎打ちが繰り広げられていた。何度となく刀を交えたが、船上からの攻撃に耐えかね不利になった十郎が逃げようとすると、景清は熊手で十郎の錣(しころ)をつかんだ。両者が引き合いの末、その錣の糸が切れ、辛くも十郎は逃げのびた。景清の力強さと十郎の首の強さには互いに感心するばかりであった。
一方、義経は馬の腹も浸る程に海中に進み戦っていた。思わず深入りした義経は、うっかり海に弓を流してしまった。あわてた義経は矢が飛び交う戦場のことも忘れて、必死に弓を追いかけた。拾い上げた瞬間、義経は苦笑しながら「立派な弓ならわざと落としても拾わせようが、こんな貧弱な弓が源氏の大将の弓と知れては恥になる」と…。
錣(しころ)引きの跡
弓流しの跡
幾度となき戦いも終わりが近づいた。 平家の応援に駆けつけた阿波の田内(でんない)教能も、義経の家臣・伊勢義盛の働きでまんまと源氏方につくことになる。 援軍さえも源氏方に取られた平家は、やむなく西へ、西へと追いつめられ、平家一門が三種の神器を奉じた安徳幼帝とともに、長門の壇ノ浦に沈んだのは、それからわずか一ヶ月後の寿永四年三月二十四日のことであった。
瓜生が丘屋島に陣を構える平家を攻めるために、源氏が陣を張った場所。